あの地震が起きてから3ヶ月になる。
被災県に住んではいるけれど
私の住む内陸の被害は本当に軽微だったから
今はもう普通に生活ができている。
今も被災地では避難所で暮らしている人もいるのに
私も私の回りも少しずつ日常に戻ってしまった。
日々起こる少なくない余震が
あの3.11は夢ではなかったと教えるけれど
それでも、もう過去のものとしてしまおうとする自分がいる。
被災者名簿は今まで意識して見ないようにしてきた。
友好関係が狭い我が家では、沿岸に知人はいない。
付き合いが悪い私は、学校時代の友達とも
ほぼ連絡を取っていない。
そうやって、身勝手なことに、
あの地震は自分の外で起こったものだと思い込もうとしたのかもしれない。
以前、友達の心輝浪さんが日記に「二度目の死」のことを書いていた。
友人まで公開の日記だったから内容は詳しく書かないけれど
一箇所だけ引用させてもらうことにします。
人は二度死ぬとはよく言われる言葉で、
一度目は本当に死んだとき、そして二度目は人々に忘れられたときといいますが
この言葉を借りて、ちょっと物騒な言い方をするならば
私は多分たくさんの知り合いを心の中で殺し
そして多分たくさんの人から殺されていると思う。
あくまでも二度目の死の意味で。そうやって生きることに何の疑問も持たなかった。
かつて同じ空間で過ごしたことのある人たちも
勝手に忘却の彼方に追いやっていた。
高校時代の友達のせいりゅうちゃんの日記で
同級生が亡くなった、と書いてあったのを見てはっとした。
誰のことかは分からなかったけれど
私の知っている人かどうかは分からなかったけれど
せいりゅうちゃんはとても胸を痛めていた。
もしかして、と思った。
勝手に忘却の彼方に追いやった人たちは無事だろうか
身勝手にそう思って、被災者名簿に初めて目を通した。
私と同じくらいの年の人の名前を順番に見ていった。
知っている名前があった。
部活で一緒だった同学年の女の子だった。
同姓同名かもしれない。
でも、昔彼女は大槌町出身って聞いたことがあった。
クラスも違ったし、楽器も違ったし、友達の輪も違ったから
彼女との交流はほとんどないに等しかったけれど
名前を見て顔と声を思い出せる程度には知り合いだった。
名簿の人が彼女かどうかは確かめていない。
怖くて確かめられないし
私は彼女につながる糸をほとんど持っていない。
彼女に限らず、糸は私が昔ほとんど切ってしまったのだ。
知人が亡くなったかもしれない、と、悲しむことができなかった。
せいりゅうちゃんのように、胸を痛めていなかった。
親しかったわけでもない、それが理由ではないと思う。
あの名前の人が、私の知っている彼女じゃなければいい。
ひどいけどそう思った。
でも、そうだとしても他の同じ名前の誰かは亡くなっているのだ。
何の救いもない。
よっちゃんごめん。
身勝手だけど、そう思った。
地震なんか起こらなければよかったのに。
おそらく
5.茹で上がったパスタをフライパンに投入してしばし炒める
ここで焼きそば風になったんでしょうなぁ
炒めるまでいかず、ソース(油)に絡める程度にしておけば
パスタっぽくなったと思いますよ